今も残るその姿
いわゆる「負の遺産」と呼ばれるアウシュヴィッツの強制収容所を訪問してきました。
歴史の授業ではその事実を学んだはずのアウシュヴィッツのこと。
実際にその場に行き、当時の資料や実際に残っている施設を目にして感じたことを記録しました。
※行き方は前記事を参照ください
ー読む前のメモー
- アウシュヴィッツって?→ヒトラー率いるナチス政権のもと建てられた強制収容所。
- どこにあるの?→ポーランド南部のオシフィエンチム市にあります。
もくじ
アウシュヴィッツ(第一収容所)
ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)
まずは第一収容所のアウシュヴィッツです。
第一、と突然書きましたが、アウシュヴィッツの収容所には第一と第二があり、第一がアウシュヴィッツ収容所、第二としてビルケナウ収容所という場所が近くにあります。
アウシュヴィッツ収容所の入口には「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」という看板が掲げられています。
この看板の「B」の文字は上下反転していて、上の方が大きいBになっています。
看板を造った職人が皮肉の意味を込め、小さな抵抗としてこのようにしたそうです。
この門を入ってきた人々は歓迎の音楽で迎えられたとか。
ただ、中で待っていたのは「死」でした。
この図は各地から連れ来られたことを表しています。
各地からのアクセスが良かったことから、このアウシュヴィッツ(ポーランド語でオシフィエンチム)に収容所が建てられたということでした。
ユダヤ人が最も多く1000万人以上、ポーランド人150万人、その他ジプシーや捕虜などもここに連れてこられたそうです。
一部は改修されるも当時のままの収容所
連れてこられた人々はまず選別され、労働に適している人は残され、労働に適さない人はそのままガス室に送られたそうです。
「死の道」へ進む子供たち
「適」となるのは25%
その選別では75%の人々が「不適」と判断され殺されたと記録されています。
ただ、「適」とされた人々も労働力として使われた後、待っているのはやはり
死でした。
飢餓で亡くなられた人も数多く居たと。
働かされて飢え死に…まさに使い捨ての命。
囚人服
もちろん満足な寝床もなく、ぎゅうぎゅうになって寝ていたそうです。
ここは「washroom」なのでお風呂か洗面台でしょうか。
衛生面がよくないのは一目瞭然です。
トイレも並んだ穴に1日2回、決められた時間に一斉に行っていたとのこと。
満足な処理もできず感染性の下痢も蔓延していたそうです。
飢餓の様子を残した写真
連れてこられた人々はタトゥーとして体にナンバリングされたそうです。
ふくねこにはこれが死の刻印に見えました。
打たれた脱走者はみせしめとしてさらされました。
でもどのみち過酷な労働を強いられて死ぬのであれば、いっそ一か八かで脱走して撃たれた方が楽になれる気がする…そんなことを思いました。
一見穏やかな場所なのに
絞首刑が行われた台
寝床は布があればまだいい方で、最初の数週間は藁だけのこともあったそうです(次の写真)。
こんな酷い状況にも関わらず、人々が希望を捨てなかったのはナチスドイツ側の知恵がありました。
名前が書かれた多くのカバン
それは、「帰宅するときに分かるように」とカバンに名前を書かせたり、持ち物に名前は書かせたことです。
そうすることで「いつかは帰れるんだ」と期待を持たせていたそうです。
決して許される行為ではないですが、心理作戦としてはうまいと思ってしまいました。
他にも、同じ連れてこられた人々の中で監守を置くなどヒエラルキーを作り、反逆を防いでいたそうです。
集められたブラシ
ただ単に残虐なよりも、頭脳がある残虐さはずっと怖いです。
大量の靴
他にも回収された大量の眼鏡、衣類も残されていました。
そして次の場所が「死の壁」と呼ばれる場所です。
バラックとバラックの間に設けられた空間
たくさんの花々も
ここでは見せしめとして銃殺が行われました。
その多くが抵抗組織として反逆を企てた人々だったそうです。
当時人々が家から持ってきた遺品も残されていました。
台所用品など
鍋やコンロも
ただ、なぜこのような品々をナチスドイツが保管していたのかが個人的には疑問です。
溶かして別のものを造る材料にするとかできそうなのに。
でもそれを連れてこられた人々にさせると「自分たちは帰れないんだ」ということを認識させてしまうことになり、集団での反逆を防ぐためにあえて保管しておいたのかな…と思いました。
実際に殺害が行われた場所にも立ち入りました。
ガス室はシャワーを浴びると言われて連れてこられたそうで、カモフラージュとしてダミーのシャワーも当時付けられていたそうです。
ガス室はいくつもあったのですが、当時を想像して中を覗くのがだんだん怖くなりました。
ガス室で亡くなられた方々の遺体はこの焼却炉に運ばれて焼かれました。
ふくねこは以前、マウスを使った実験をしていました(生物系理系です)。
一日に大量のマウスの命を奪うこともありました。
最初は抵抗がありましたが、仕事としてやっているとだんだんそれが普通の行為になってきます。
いや、やっぱり抵抗はあったけど、やるしかないので慣れてきてしまいます。
当時のナチスドイツの人々も感覚がマヒしていたのではないかと思います。
決して擁護はしませんが。
ただ本当に人々をただの個体として扱っていたのだという印象を受けました。
人名リストが検体のよう。
あと、チェックマークが入っていたりするリストがあるのが謎でした。
これだけ大量に虐殺しておきながら管理はしっかりしている。
その点やはり外部への情報流出を防いでいたのでしょうか。
この鉄線には当時高圧電流が流れていたそうです。
その姿は今も残っています。
他にも第一収容所には資料室として利用されているバラックが複数あり、当時の資料や写真をいくつも見ることができました。
胸が痛む写真も多くあり、人が人を殺めることはもう起きて欲しくありません。
ビルケナウ第二収容所
続いて、シャトルバスで第二収容所のビルケナウに行ってきました。
こちらは建物の多くがなくなっていますが、その広さから多くの人々が収容されていたことが分かります。
敷地内には鉄道も敷かれています。
このレールに乗って、窓の内貨物車のようなものでここに連れてこられたそうです。
線路の先には慰霊碑も建てられていました。
こちらは証拠隠滅のために破壊されたガス室です。
証拠隠滅、ということはこの非人道的な大量虐殺の事実を隠そうという思いがあった=いけないことをしていたという認識があったのでしょうか。
変なところに疑問を持ってしまいました。
死のバラック
水も食べ物も与えられず、ただ死を待つ。
飢餓に耐えて生き残っても待っているのはガス室での死。
ならいっそ早く死んでしまいたいと考えるだろう。
これを読んでいてそう思いました。
入りきらなかった人は鍵をかけられた庭に寝かされていたとか。
耐えても何をしてもその先に待っているのは死。
そもそも労働力として使うのなら食料や住環境を整えた方が生産性は上がるのに、それをしなかったのは「ユダヤ人の絶滅」という恐ろしい目的が真実だったからなのか。
こんな時代がもう二度と来ないことを願うばかりです。
最後に
ガイドなしの個人ツアーでも感じるものはありましたが、やはり説明があった方が理解が深まったかなと思いました。
ガイドツアーは所要時間が3~6時間(タイプによる)と長いですが、可能であればガイド付きがおすすめです!
アウシュビッツへの拠点となったクラクフについてはこちら↓